初めての師 松浦竹夫
松浦竹夫略歴

大正15,4,14生まれ
海軍兵学校75期

S2?年  文学座入団  NLT経て
S44三島由紀夫氏と浪漫劇場創立    S47解散

(この頃の劇団の分裂や、創立、解散は、それぞれは当時の思想、政策、経済、劇団の歩み方などで、
かなり熱く語られていたようです。それによって、一つの作品を作っていくうえでの、それぞれの
情熱のぶつかりあいだったのでしょう
 当時もちろん、どの内容にも私は生まれていないし、
参加していませんが
 どちらが正しくどちらが裏切ったと言うことではないと、
思っています。)

S48  松浦企画創立 プロデュース公演 
     シェークスピア原作「愛する時も死する時も」舟木一夫主演
S49  松浦竹夫演劇研究所設立
S59  帝劇「序の舞」山本富士子主演で演出350本目を達成
H2,2 明治座「春琴抄」山本富士子主演で演出380本目
H10,11,22没

先生を偲ぶ会。
 初演出S27,4 ジャンヌアヌイ「ロメオとジャネット」
代表演出作品 卒塔婆小町、鹿鳴館、黒蜥蜴、サド侯爵夫人、
その前夜、寺田屋お登世、新吾十番勝負、薄桜記、いのちある日に、六人の暗殺者、我が友ヒットラー 他

当時 劇団は新演劇人グループテアトロ<海>(うみ)といっていた
劇団は50人くらいの先輩がいて、松浦先生は各都市の商業劇場の演出に駆け回っていらした
だから、あまり授業には出ていらっしゃらなく代講でした。 
 先輩方は先生が演出する公演に、かなり多数出演されていて、劇団だけでは得る事の出来ない経験を、 
 沢山されていたようだ。

私は卒業公演で初めて先生の演出を受ける事ができた。
先生は演出のとき、怒鳴る、灰皿が飛ぶで有名な方だった。
 これは商業演劇の演出でも行われていたそうだ
 自分の演出プランや、説明しても判らない役者スタッフに、苛立ちを感じ
 つい言葉よりも、先に何かが飛ぶのでしょう、
 
私も劇団公演で幸いにも?何度かの貴重な洗礼を受けています
例えば? 芸者の役で先輩芸者の騎馬戦の馬に私が乗っていて、名乗りをあげます
「声が小さい。!!!!」
だんだん怒られ始め、最後にはタバコとライターが目の前に飛んできました
このまま当たっては怪我をする!さりげなくライターをよけてタバコを顔面で受けた。
これは熟練してきた先輩方の教え直接よけるとお怒りが倍増するからと!

自分の演出意図を役者が理解しないと、度々行われていました
60年近く培って来た先生の頭の中の演出プラン、ハート、感性、その他のものを
この若造に一生懸命、叩き込もうとしてくださっている事は今頃になって判りましたが
その頃には、自分の中にその受け入れる引き出しが作られていなかった
その頃の演技指導(ダメだし)を受けた内容が今になって判ることが事が多く
今も観客席の後ろの方から怒られている気がします   

七回忌と偲ぶ会
平成16年11月20日(日)千葉、夷隅郡岬、和泉
仙風苑にて

施主 松浦夫人、長男、長女夫妻、現役劇団員、OBあわせ50名の大勢で行われた。
中でも浪漫劇場時代の夏八木 勲さんも出席なされ、それぞれ、先生のご生前にお世話になった思いをこめて、お墓にお線香とお花を手向け、そして仙風苑にて、ご住職のお経を上げて頂く。

その後場所を移動して、偲ぶ会になる。
松浦夫人の挨拶のあと献杯をし、会食、先生のビデオなどを見ながら思い出話が尽きない。

その後二次会になり雑談に入る。
劇団1期生から新人まで、初対面の人同士も多かったようだ。
話をしていて、10年前がついこの間の様に、「俺、お前」の世界にすぐなって、時の流れが昔に戻る

それぞれに、芝居について、昔の話で盛り上がる。
松浦夫人(私たち劇団員はママと呼ばせて頂いていた)が、「先生が存命の頃の劇団員は、色々ご指導いただき、仕事も沢山頂いて、とても勉強になった。でも、今現在の劇団員はそれが無い。
辞めていったOB達にぜひうちの子たちに力を貸してあげてほしい」とお話され、OB,現役それぞれ
すすり泣く人たちがいた。
こうして、今も先生のお陰で、皆集まることが出来、それぞれの世界で活躍している。
OBの中でも今お芝居を続けている人もかなり多い。
松浦先生の教え子という、自信を持ってこれからも、恥ずかしく無いように、役者として歩いていこうと新たに思った
9期生左から松浦日女子さん、私、
吉村さん、木村美弥子さん(現役)


七回忌 仙風苑にて

土橋成男先生との出会い

今まで脚本を書かれた数は想像もできないくらいあると思う。
残念ながら、調べたくても本を手に入れたくてもなかなか情報がない。
脚本が多いので、全集のようなものは、無いようである。
もっともっと長生きしていただきたかった。

劇団公演で「薄桜記」という芝居をしたときに初めてお会いする
これは五味康祐原作でS34年に市川雷蔵さんが映画で演じられています
それを土橋先生が脚本にし松浦先生が演出で1971年明治座で舟木一夫主演で上演されている。
この時舟木さんが、この作品を気に入り土橋先生に、舞台で上演したいので、脚本にして欲しいと
頼んだそうです。

それを劇団で1990年九月紀伊国屋ホールで公演した(舟木さんを客演に迎えて)

公演を土橋先生が観にいらして下さったとき、初めてお会いしました。
松浦先生が休憩中に土橋先生に、最後の雪は良かっただろう???と
「松浦、まだ一幕だよ」と土橋先生。疲れて寝てしまっていたのですね
雪の松浦-――と言われるほど演出がすばらしい先生でしたーーー居眠りしなければ!!
この作品に出演したことにより、色々なことを学び、出会い、
その後の役者生活に転機を与えてくれました

新宿コマで森進一主演「伝七捕物帳」で土橋先生の演出を受けさせていただくことになった。

お稽古場で先生は私の芝居の仕方を観て「君は松浦に相当、背の高さを言われてきているね。
いいんだ自然にしていなさい。
君は今ここでGパンとトレーナーでいるつもりで、お芝居をしなさい」と
そして演出席から立ち上がって、六尺棒という立ち回りで使う棒を持って、
私が少しでも、小さくなろうとする形の癖が出たりするとつっつかれました
周りには大先輩がたくさんいらっしゃる中、愛情あふれる演出でした

名もない若い女優の稽古に、我慢してお稽古場で待っていてくださった皆様、ありがとうございました!!!

その後先生は身体を壊されお見舞いに伺うと、ベッドの上でワープロで台本を書いていらっしゃいました。

1992年12月新宿コマ「花の天保六歌仙」由利さん、舟木さんの公演中に亡くなった連絡が入りました。
本番中だったのでお通夜も告別式も伺えませんでした。
後から聞いた話によるとお香典返しの内容まで御自分で決めていて
私たち若い役者には辞書が贈られてきました

森進一さんの公演の打ち上げの抽選で、
先生にリスのぬいぐるみ、私にゴルフボールが当たったので先生が交換してくれました。
今でも大事な宝物です


最後にお会いしたのは1991年年末。
森進一さんの公演の舞台稽古に私が遊びに伺い、先生にお会いしました。
「元気?がんばってる?今日打ち合わせ終わったら、君のバイト先に飲みに行くよ。連絡するね」
ある程度時間がたったら、アルバイト先に電話があり
「ごめんスタッフとのみに行く事になっちゃった。またじゃ初日あけたらね」

これが最後でした

いつもいつも言われました。
「北大路欣也さんや高橋英樹さん、松平健さんの公演に出るようになれば
大きい事など何でもないんだから君はこれからだからがんばれ、あせらないで」
いつもはげましてくれました
ずっと背が高くて、出演が出来ない公演が多かったのです。
今ようやく、いろいろな劇場、座長公演に出られるようになりました。
先生、見ててくれますか?

もっともっとたくさんの事を教えてほしかった―――――

薄桜記と舟木一夫さん
劇団ではアトリエや小さな劇場で公演し、一年に一度、新宿紀伊国屋ホールで公演することになっていた。
それが私たちの楽しみでした。
その年はなかなか作品が決まらず、何になるのか色々候補があがり、楽しみにしていました。
天保12年のシェークスピア、命ある日になどなど、毎日劇団員の話題になっていました。

数日後「決定!1990年九月!薄桜記ーー客演、舟木一夫」と張り出しがありました。
舟木一夫??
私にとっては、舟木一夫とは、劇団の壁に飾ってある、1973年東横劇場「愛する時も死する時も」の
主演やくざ姿?の舟木さんのポスター姿とデビュー曲高校三年生のイメージしかあと自殺未遂、、、、!!!(ごめんなさい)

新劇のお稽古は大体ひと月くらいします
お稽古中頃に初めて舟木さんが参加してきた。
プラット狭い劇団の稽古場に一人で入ってらした。私が一人で2階の稽古場でストレッチしていたら
「おはよう!」サングラスの男性が声をかける!!
(あ〜この人が舟木一夫だ)緊張が走る。とても神経質な方だと思っていたから。

舟木さんがいらしていない間、代役の役者が稽古をしてました。
代役が大体こうですと説明しようとすると
「あ!わかりました」と、そのまま自分で稽古に参加し始めました

立ち回りも10年ぶりとかいうのに、あまりの見事な役者ぶりに驚きました
神経質な方という思いも、稽古が進んでいくと勘違いであった事がわかりました。
数時間のうちに、このメンバーのそれぞれの性格をつかんでいかれました。

稽古が数日つづくうちに、松浦先生が、病後という事もあり、例のごとく苛苛し始めて、怒り出した。
何度も舟木さんが「ま〜ま〜」と、なだめてくださりましたが
ある時、「先生、後は皆でやりますから、お帰りください」と舟木さんが、言い出した。
「あっそう?じゃ、シゲちゃんあと頼むね」皆はポカーンとしていました。
そんな事が先生にいえるなんて。
舟木さんには、先生の苛立ちもわかるし、このままでは、劇団員も緊張してお稽古が出来ないと思ったらしい。
舟木さんは少し休憩をとった後に
「この劇団のよさは、チームワークなんだから、皆一つになって頑張らないと」といって
私たちを、まとめてくれました。


お稽古と本番あわせて二週間、色々な事を教えていただきました

メイクのことなども色々ご指導くださいました
時代劇は相当久しぶりらしく、メイク道具はほとんど捨ててしまっていたそうです
相手の妻、千春役の子は時代劇も不慣れだったので、彼女直接だと緊張するので、
一番の女優年長者の私に、彼女に対していろいろ指導して下さりました

舟木さんの恒例の千秋楽
舟木さんの座長時代はその頃残念ながら知らないので、こんなに色々される方とは思いませんでした。

確か千秋楽昼の部。
丹下の家を訪ねた嫁の家族一同の宴席で。
いきなり丹下が「赤い夕日が庭を染めて〜〜〜」と挨拶の変わりに話始めた。
私の夫、千春の父が、@「待て待て、その不義とは〜〜」と、あまりの舟木さんのアドリブに動揺して
何ページも台詞を飛ばした。私も横にいて「貴方、まだそのような話は何も」といってつっ付いたのだけれど
もう、何が何だかわからなくなっているその方。
しばらく皆でつなげようとしましたが、どうにも収まらず、舟木さんがきちんと仕切りなおししてくれました。

そして魔の夜の部
まずまず、昼の部と同じ場で。
皆夜の部は絶対舟木さんがもっと何かしてくるだろうと、完全に身構えていた。
そしたらそしたら、「ところで母上(私の事)、父上はお加減が悪いと伺っていますが、
夜のお勤めはいかがでございましょう?」
のような事を、質問された。
回りの仲間は、ターゲットが自分でなかった事で、安堵感が出て皆、ニターと私の方を見ていました。
たった一人残された私は、「婿殿〜〜!それはそれは(必死でどう答えたらいいものか考えています)
----お陰さまで」
と答えてしまいました。
あとから舟木さんに、お盛んでと言われてしまいました
だってだって、なんて答えたらいいのか、母の立場だし、ヤダ〜とはいえないじゃないですか。
一幕はその場面しか遊べるところはないのですよね。
後のお遊びとしては、二幕で着物の袖一杯のおせんべいをもってきて女中さんに差し出したり
お土産に長兵衛に本物の大福を持ってきて食べさせたり
あと最後の最後
安兵衛との一騎打ちの後、倒れるまでの間に台本にない
「そなたたちとわずかに出会ったひと時、閻魔に伝えておこう?」
何かこのような似た言葉を雪の中倒れていく瞬間に言われました。
私たちは、カーテンコールの準備もあり、劇団公演ゆえ、雪を降らすのも自分たちです。
衣裳着たまま雪にかかわっつていたら、台本にない台詞が聞こえてきました。
女優人はその言葉にほとんどが泣いていました


後日談として
舟木さんという方を誤解していたことを、後日おわびしました
「だって、舟木さんデビューされたとき、まだ私生まれていなかったんです」
といったらショックを受けていました

それからまさに9年後
新橋演舞場で舟木さん主演でこの「薄桜記」を上演された
その時は残念ながら松浦先生も、土橋先生も亡くなっていました
きっとこの時を待っていらしたはず
榎本滋民演出

私も客席で拝見していて、オープニングの曲がかかると、その時のままーー
緞帳が上がった瞬間、劇団当時のいろいろな事が走馬灯のように巡ります
涙が止め処もなく流れました。第一台詞が始まる前に泣いていました。
演出もほとんどそのままで、その時私は台詞も全部覚えてました

雪のラストシーンもすばらしかったです、雪の松浦健在でした、演出は榎本滋民先生
涙、涙の舞台でしたーーー両先生に合掌
(その後榎本先生もなくなりましたーーー合掌)



その後もと劇団の何人かが舟木さんの公演に参加しています
私も2作品ほど出演させていただきましたが、そのたびに劇団員のその後を気にしてくださっていました

ありがとうございました